戸惑い
8月某日。
夏の日差しは強く、日中は出歩くには向かない気候だ。
分かってはいるが、稲羽市で起こった連続殺人事件の解決のためにはそんな事を言っている場合ではない。
警察はすでに犯人を捕まえた気でいるが、彼が犯人ではないという思いが直斗をこの炎天下の元での調査を駆り立てた。
「まったく、忌々しいな・・・」
直斗は薄着ができない己の身体を疎ましく思いながらも、額の汗をぬぐう。
暑さで脳が上手く働かない。
熱中症にならないように適度に水分を取らなければけないという思いと、少しの間でいいから涼みたい気持ちが直斗をジュネスの店内へと導いた。
そんな時だった、直斗が声をかけられたのは。
「あれ? 君は・・・」
「あなたは・・・」
何度か顔を合わせたことのある青年、神凪樹だった。
事件に何らかの関与があると思われる、要注意人物。
直斗は自然と身構えたのだが、
「こんにちは」
と、人のいい笑みを浮かべて挨拶をされて、直斗は拍子抜けしながら帽子のつばを持って軽く会釈を返した。
「どうも」
それで終わるのかと思えば、彼は立ち去るどころか完全にこちらに身体を向けてしまう。
いったい何の用があるのかと直斗は眉を寄せた。
「毎日暑いね」
「夏ですからね。暑くて当然だと思いますが」
「確かにそうだ」
なにがおかしいのか彼は小さく笑う。
「ねぇ、これから時間ある?」
「は? 時間、ですか?」
突然の問いかけに首を傾げた。
「少し付き合ってくれないかな」
「どこにですか?」
「食品売り場」
思わず黙り込む。
直斗には彼がなにを考えているのか分からなかった。
どう考えても、先日の邂逅は両者共に良い印象など与えなかっただろうに、なぜこんな誘いをかけてくるのか。
しかし、何かしら事件解決の糸口が見えるかもしれないのなら受けてみるのも悪くはない。
直斗はまっすぐに樹を見詰めて頷いた。少しでも怪しい言動を見逃さないだめに。
「いいですよ」
「そ。よかった」
だが、そう言って笑う彼に裏があるように見えなかった。
直斗は歩き出す彼の後ろを黙ってついていく。そうしてたどり着いた食品売り場でなにをするのかと思えば、樹はまっすぐに冷凍食品の売り場へと向かい、その向かい側の冷凍室のアイスを物色し始める。
「アイス・・・ですか?」
「うん。外暑いし、アイス食べたくない?」
問われて、直斗もまたアイスを見れば確かに食欲をそそられた。
知らず喉がなると、樹はまた小さく笑ってアイスへと視線を戻す。
「う〜ん・・・やっぱりホームランバーかな?」
「ホームランバー?」
「知らない?」
「・・・ええ。あまり食べないので」
「そっか。じゃ、これにする?」
ホームランバーと思われる二本の細長い棒付きアイスを取り出した。
「え?」
「これでいい?」
再び問われて、そこで始めて彼が直斗にもアイスを買おうとしている事に気がついて慌てる。
「そんな! 僕の分はいいですから」
「いいから。お兄さんに奢らせなさい」
にっこり笑って帽子の上から頭を撫でられて直斗は押し黙った。
おかしい。
直斗は動揺に視線を彷徨わせる。
こんな、子ども扱いされたのに、怒りよりもまず驚きの方が来るなんて変だ。
「どうした?」
「・・・いえ」
「そう? じゃ、行こう」
促されて、素直についていくなんてなんだか自分らしくなくて直斗は戸惑う。
結局、樹の言うままにアイスを奢ってもらい、二人揃ってジュネスを出た。
その後も特別会話らしい会話もなく、なぜか二人はアイスを食べながら鮫川の土手までやってきてしまう。
食べ終わったアイスの棒をごみ箱に捨てた所で樹が直斗を振り返った。
「暑いけど、河原まで降りない?」
「はぁ・・・。構いませんが」
「川の近くはきっと涼しいよ」
そうして二人で川辺で座る。
なにをする訳でもなく、川のせせらぎを聴いて。
川に沿って吹く風も心地いい。
不思議だ。と、直斗は立てた膝に乗せた腕に頬を寄せる。
張り詰めていた感情がゆっくりとほぐれていくのを感じていた。
小さく、ため息をつく。
しばらくこんな安らぎを感じる時間を持っていなかった。
事件の捜査は上手く進まず、警察の人間にも邪魔者扱いをされて、必死になって自分の疑惑を確かなものにしようと心を張り詰めて。
「暑いけど、気持ちいいね」
そっと隣から問いかけられて顔を上げた時、ふわりと、しっかりと被っていたはずの帽子が浮いた。
あ。と思ったときには川へと落ちてしまって、しまったと立ち上がろうとした直斗よりも樹がすばやくそれを追う。
「ちょっ!」
驚いたのはその後。
彼は濡れるのも構わず川へと入り、水の流れに乗る前に帽子を取り上げた。
「なにをしているんですか!」
思わずとがめると、彼はびしょ濡れの姿のまま帽子を直斗へと差し出す。
「ごめん。思わず体が動いちゃった」
悪びれるでもなく、樹は笑っていて直斗はなぜだか苛立つ。
「あなたはっ!」
「良かった。そんなに濡れていないよ」
言葉を続けようとしたのに、「はい」と帽子を差し出されて気が抜ける。
なんだか怒るほうが間違いのような気がしてため息をついた。
無言で帽子を受け取って、けれど濡れた帽子をかぶる訳にも行かずそのまま手を下ろす。
お礼を言おうとして口を開こうとした時、視線を感じてその主を見上げれば、彼はまじまじとこちらを見つめていた。
「へぇ・・・」
その声に眉を寄せる。
「なんですか?」
「うん。・・・帽子を取ると、ずいぶん印象が変わるんだなと思って」
「僕ですか?」
「うん。可愛い」
にっこりと微笑まれ、直斗はカッと頬が熱くなるのを感じた。
「か、可愛いってなんですかっ!」
よりにもよって、可愛いだなんて嫌いな言葉を言われるなんて、と憤りをあらわにすると樹は「しまった」と誤魔化すように笑って頭をかいた。
「ごめん。言葉がすぎました。・・・そうだよな、可愛いはないよな」
「二度とそんな言葉を言わないで下さいっ!」
直斗はふいっと顔をそらす。
本当は、憤りだけではなかった。
恥ずかしいだなんてそんな感情、生まれるはずなんてないのに。
「あなたといると、僕は調子がおかしくなる」
樹に声をかけられた時から、直斗の調子は狂いっぱなしだった。
調査対象の人物の話にのり、アイスを買ってもらって、一緒に歩きながらそのアイスを食べてこんなところまで来るなんて。
しかも、事件に関する聞き込みすらせず、のんびりと過ごしてしまっている。
こんなのはおかしいと気を取り直して何かしら事件の事を聞こうとしたのだが、
「ひゃあっ」
目の前の人物が突然シャツを脱ぎ出したのに驚いて悲鳴を上げてしまった。
「あれ? 今女の子の声しなかった?」
きょろきょろとあたりを見回す彼に気がつれないように顔をそらす。
「そ、そうですか?」
「気のせい?」
首をかしげながら、脱いだシャツを川辺にある足場のブロックに広げた。
「帽子、貸して」
「あ、はい」
乾かすのだと察して素直に帽子を差し出す。
この季節ならすぐに乾くだろう。
「・・・乾くまで時間があるな。なにかしようか」
「なにかって、なにをですか?」
「うーん」
腕を組んで考え込むのはいいが上半身裸のままは何とかならないのか。
夏の日差しのせいだけではない熱を頬に感じる。
細めだけれど、無駄なものがついていない体躯。
引き締まったその身体は直斗が望んでやまないもの。
「・・・あの」
「ん?」
「帽子、ありがとうございました」
羨望の思いを必死に押し隠しながら、忘れていたお礼を言う。
ずいぶんとそっけない物言いになってしまったのに、彼は優しくこちらに笑いかけた。
「流されなくて良かったね」
それを見てなぜだか落ち着かない気持ちになる。
自分が最もなりたい存在である事への嫉妬や己の中に生まれた理解できない感情への苛立ちと戸惑いが胸中を波立たせていた。
樹の存在は、直斗の調子を狂わせる。
はっきりと自覚した直斗は、これ以上ペースを乱されたくないからと彼と距離を置こうと方向転換をしようとした時、ぐらり、と体が傾いた。
あると思っていた足場のブロックがそこになかったのだと気がついたときには身体は川へと投げ出されていて、直斗は衝撃を覚悟して目を瞑る。
川には大小さまざまな石が転がっていたから、怪我の一つや二つするかもしれないと思ったのだ。
だが、川に落ちる直前に何かが身体を包み、なんだ?と思ったのが最後、次の瞬間には冷たい水が全身にかかって水中に落ちたのが分かった。
「だ、大丈夫?」
「!!」
びしょ濡れの身体に巻きついた自分のものよりも太い男の腕。
それが樹のだと理解した時には頭の中が真っ白になってしまってただ呆然と彼を見つめた。
守られたのだ。と、半ば放心状態で思いながら、それよりも問題なのは自分を抱きしめる腕であって、彼の体温だった。
直斗がすっぽりと包まれてしまうくらいの体格の差。
力強い腕に比べていかに自分の腕が細いのか。
彼のような人が『男』で、自分は『女』なのだと実感したとたん、なぜか劣等感よりも先に羞恥心がこみ上げてきて、直斗は樹を突き飛ばしてそこから抜け出した。
「あ、ちょ・・・」
彼の制止の声を最後まで聞かず、干してあった帽子を取って走り出す。
これ以上、一緒にいることができなかった。
直斗が欲しかったものすべてを彼が持っている事に、悔しさと共に憧れの感情が胸中を占める中、心の片隅にもっと別の何かが生まれたのを感じていた。
それはいくら探っても今の直斗では解明できない謎となって数ヶ月の間留まり続ける事となる。
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