棘










 その日は、雨が降っていた。


 彼は雨の日になるといつも一人でフラフラしているのを知っていた。
 いつだったか、雨の日に何をしているのかと聞いたことがある。

「街を見てるよ。雨音が好きなんだ」

 そう言って、静かに微笑んだあの人はなにか別の事を考えているようだった。

 彼女の事を考えているのだろうか。

 チリチリと胸を焼く痛み。
 もうすでに踏ん切りをつけて、きっぱりと諦めたはずなのに、今さらになってなぜなのか。



「せーんぱいっ! 今日も街を練り歩くんですかー?」
「りせ・・・。練り歩くってなに?」
「え? 違うんですか?」
「あー・・・確かに、フラフラしてるけどね」

 苦笑をこぼす先輩・神凪樹の腕に絡みついた。

「私も一緒に行っちゃだめですか?」
「りせも? ただ雨の中を歩くだけだよ?」
「はい! デート、しましょ!」
「まったく・・・。いいよ。でも、濡れないように気をつけて。寒いから暖かいかっこうで来るんだよ」
「わかりました!」

 ぽんぽんと頭を軽く叩かれて、でもまったく痛みのない優しい触れ方にりせは笑う。

「先輩、大好き」

 屈託なく告げれば樹は少し困ったように、けれど「ありがとう」と目を細めた。




 こうして街を歩いてみると、気がつかなかった発見がいくつもあった。

 傘を叩く雨音。
 静寂に包まれた商店街。
 いつもより少し早めな川のせせらぎ。

 そして、言葉少なめに交わされる会話と、その声音の密やかさ。

 なぜだろう。
 いつもよりも樹が話さないからか、彼の雰囲気にのまれたからか。
 りせもまた言葉少なく彼の隣を歩いていた。

 この静寂は、実は少し慣れない。
 アイドルになってからいつも周囲が騒がしいのが普通で、こんな風にただ静かに雨音を聴くなんてした事がなかった。

「先輩、いつも雨の日はこんな風に過ごしてたんだ」

 河原に下りるのは危ないからと土手をのんびりと歩く。

「・・・一人で?」
「ん?」
「雨の日の散歩はいつも一人だよね? 誰かと一緒に行ったりしないんですか?」
「あるよ。たまにだけどね」

 そう言って笑った顔は、りせに向けられた事のない少し照れの含まれたもので。

「もしかして・・・直斗くん、だったりして」
「うん。正解」

 少しだけ否定してほしかったと思ったのは内緒。

「へ、へぇ! 先輩ってばもしかして直斗くんの事が好きなの?」

 上ずった声に樹は気がついただろうか。

「・・・うん。付き合ってる」
「・・・・・・そ、っか」

 本当は知っていた。
 でも、確証があった訳ではなくて、二人の間に流れる雰囲気がとても甘やかだったからもしかしてと思うぐらいだったけれど。

「ねー先輩? 私も・・・先輩の事好きだったの知ってた?」

 なるべく明るい声で、過去形で伝える。
 樹はそんな彼女に少し困ったように笑っただけだった。
 けれど、それだけでわかった。やっぱり、気がついていたのだと。

 千枝も雪子も、他にもたくさんの人が本気で樹の事を好きになった。
 けれど彼は誰の想いにも応えなかった。
 りせの、想いにも。

「やっぱりなーっ。先輩、いい雰囲気に持っていこうとするといっつも話そらしちゃうし。抱きしめてほしい時に、抱きしめてくれなかったし・・・」

 彼はけして鈍いんではない。逆にとても聡いのではないのだろうか。
 敏感に空気の変化を感じ取ってけして告白をさせてくれる雰囲気にはしてくれない。

「でも、先輩が、誰かを特別にしなかったから、それでもいいかなって、思ってた。でも・・・」
「りせ・・・」
「先輩は、見つけちゃった。特別な人。なんで?って正直なところ、思ったの。
どうして、私じゃなくてあの子なの?って。・・・あ! でもね、その時にはもうちゃんと気持ちの整理ついてたの。それは本当だよ!」

 慌てて弁解すると先輩はただ「うん」と頷いただけだった。
 なんだかそれが、悲しい。
 過去の事にしたのは本当。でも、それでも、告白すらさせてもらえなかった事がりせの心の棘になった。
 思い出したように、チクチクと刺さるのは樹を想う最後のひと欠片。

「直斗くんのことだって大好きだし、二人が好き合ってることを反対なんてしない
し! でも、それでも、やっぱりっ!」

 瞼が熱い。
 こらえようと唇を噛むけれど、零れ落ちる涙を止める事ができなかった。
 今まで押さえ込んできたものが、堰を切ってあふれ出すように。

「私を選んでほしかった! 本気で先輩の事、好きだったのに!」
「りせ・・・」

 傘が手から落ちる。
 ぐちゃぐちゃな顔を見られたくなくて両手で覆った。

「ご、めん・・・なさ・・・。先輩の事、困ら、せるつもり、なかったのにっ」
「うん。わかってるよ」

 そっと、大きくて暖かい何かに包まれる。
 それが樹の腕だとすぐに分かって、すがりつくようにりせも彼の腰あたりの制服を掴む。
 胸元に顔をうめて涙を隠した。

「ありがとう。そんなに想ってくれて。・・・・・・ごめんな」
「・・・せんぱ・・・・・・」

 優しく響く声が、さらに涙をあふれさせる。
 これで、正真正銘自分の恋は終わったのだ。

 今日で、彼への想いで流す涙は最後。その涙もまた手でぬぐって、りせは樹から離れる。

「えへへへ」

 なんだか恥ずかしくなって笑う。

「二人揃ってびしょ濡れだね」
「そうだな」

 頷いた彼の笑顔も先ほどのような困ったものではない。それが嬉しい。

「風邪をひかないうちに帰ろうか」
「そうですね」

 今さらさして意味があるのか分からないけれど、足元に転がっていた傘をそれぞれ持って帰り道を歩く。
 その時。

「あれ?」

 樹が何かを気がついた様子で走り出す。

「どうしたんですか?」
「これ・・・この傘・・・・・・」

 道端に落ちていた開いたままの傘。
 こんな日に傘を落とすなんて事があるんだろうかと首をかしげていると、樹が慌てたように周囲を見渡し始めた。

「先輩?」

 あまり見たことのないひどく焦った様子の樹の姿に、りせはもしかしてと思い至る。

「先輩、もしかしてこの傘・・・」
「・・・直斗のかもしれない」
「!」

 りせもまた周囲を見るが人影一つない。
 もし先ほどの抱擁を見られたのだとしたらと顔から血の気が引く。
 たとえ、抱き合う二人の間に恋愛感情がなかったとしても、好きな人が別の女を抱きしめている姿なんて見たら傷つくのが当たり前だ。

「先輩、追って! 直斗くんきっと誤解してるっ!」

 りせもまた慌てて樹を急かす。

「わかった。ごめん、送ってあげられないけど」
「そんなのいいから! 急げーっ!」

 追い立てると、樹は頷いて走り出した。直斗の傘を持って。
 その、珍しいほどに必死にな後姿に自然と笑みがこぼれた。

 これからは本当の意味で二人を応援できそうだ。

 とりあえずは、
「がんばれ! 先輩っ!」
 今のこの、ある意味修羅場的な状況が打破できる事を願おう。


 しとしとと雨が降る。
 けれど西の空の雲間から茜色の空がのぞいている。
 雨が上がるのも、そう遠くないだろう。









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