Sweet -3-










 バレンタイン当日。
 ドキドキと鼓動が大きくて、落ち着かない。

 土曜日だとて授業はある。
 その後、樹を呼び出して昨夜作ったチョコレート菓子を渡すのだ。

 携帯電話を持つ手が震える。
 彼はちゃんと自分の作ったものを受け取ってくれるのだろうか。

 電話番号を呼び出して、発信ボタンを押して。
 着信音が耳に響く。

 こんなに緊張するのは、告白を受けた時以来かもしれない。
 浅くなりつつあった呼吸に気がついて大きく深呼吸を繰り返す。

「・・・先輩」

 なかなかでない相手に焦れると同時に不安になる。

 彼はとても魅力的な人だから、きっと、たくさんの人が想いを告げに行くだろう。
 それを想像するだけで胃の辺りがムカムカしてイライラする。

 これが俗に言う嫉妬である事を知ったのはつい最近の事だ。
 誰かに執着し、独占欲を持つようになるなんて以前の自分では考えられなかった。

『もしもし』

 鼓膜に響く心地よい低音。
 さっきまで不安に囚われていたのが嘘のように気分が高揚し始めた。

「あ、あの!」
『どうした、直斗?』
「あの! 今日、放課後時間取れませんか?」

 裏返りそうになる声を必死に押し留めて冷静を装うが、小さく笑う声が聞こえてこちらの緊張が見抜かれている事を知る。

『いいよ。俺も、会いたいし』
「は、はいっ!」

 会う約束はできたとほっと息を吐く。
 もっと話をしていたい気持ちだったのだが予鈴が鳴り響いて切らざるをえない状況になってしまった。

『それじゃ、放課後に』
「はいっ」

 名残惜しかったけれど、久しぶりに放課後を一緒に過ごせるので我慢をする事にする。
 直斗は携帯電話をしまって、その日長い一日を過ごした。




 心待ちにしていた放課後、いつもみたいに一階の廊下で樹が来るのを待っていたのだが、いくら待てど彼は来なかった。
 どうしたのだろうかと心配しながら待っていると、ずいぶんと遅くなってから樹が階段を駆け下りてきた。

「ごめん! 直斗」

 急いできたと分かる姿に、怒りよりもほっと肩の力を抜く。

「いいえ、大丈夫です」

 言いながら、彼の手にあると思っていたチョコレートの姿がなくて僅かに首を傾げる。
 問おうかどうしようか迷っていると、「行こう」と促されて機会を逃がしてしまう。

 そうして二人で並んで帰りながら、やっぱり樹の傍は落ち着くと自然と口元に笑みが浮かんだ。
 もちろんドキドキもするけれど、傍にいられる事の喜びが大きくてそれすらも心地よくなるのだ。

「ねぇ、直斗」
「は、はい」
「家に寄って行かない?」
「はい・・・」

 ドキリとひと際大きく鼓動が高鳴る。
 こちらを流し見た樹はやっぱりカッコイイと密かに思いながら、鞄を抱きしめた。





「ちょっと待っていてね」

 家に着くと、樹は直斗を二階の自室に通すと再び階下へと戻る。
 その間、直斗はいつもどおりソファに腰を下ろして足元に置いた鞄から小さな箱を取り出した。

 シンプルな包装を見て小さくため息をつく。

「本当はもっと・・・」

 立派なものになるはずだったのに。

 心の中で呟いて、再び鞄の中にしまう。

「どうした? 浮かない顔をして」

 部屋に戻った樹は、ちょうどその様子を目撃したらしく、コーヒーカップを乗せた盆を片手に首をかしげた。

「あっ! い、いえっ、何でも・・・」

 慌てて立ち上がったせいで足が鞄にあたり倒れた拍子に中身が飛び出してしまう。

「ああっ!」

 飛び出した中には先ほど見ていた箱もあって慌てて拾い上げる。
 樹はそんな直斗を見て無言でテーブルに盆を置くと、彼女に向き直った。

「直斗、それ・・・」

 背中に隠したけれど、やはり樹に見つかってしまったようで気まずくなる。
 もともとコレを渡すために電話で約束を取り付けたのに、いざとなると決意が鈍ってしまう。

 自分よりもはるかに料理もお菓子作りも上手な樹。
 こんなヘタなものを渡してしまってもいいのだろうか、と。

「直斗」

 重ねて呼びかけられて、観念した直斗はうつむいていた顔を上げた。
 帽子は慌ててチョコレートの入った箱を取り出した拍子に落ちてしまっている。
 表情を隠すものは何もない。

「あ・・・の・・・・・・」
「うん」

 樹を見上げると、彼は優しい表情でこちらを見ていて高鳴るばかりの鼓動が落ち着きを見せ始める。

 そこで初めて気がついた。
 樹がすでに、この手に持っているものがなんであるのか分かっていることに。
 その上で微笑んでいてくれるのだと。

「・・・神凪さん、これ、貰ってもらえませんか?」

 差し出したチョコレート。
 昨日の夜、一生懸命作ったそれ。

 本当は、手作りのチョコレートケーキを作るはずだった。
 完二に相談にのってもらって、樹の作ったケーキを負かしたいならチョコレートケーキで勝負だと言われてその気になって作ってみたけれど、なかなか上手く出来なくて何度も失敗した。それを完二が全部平らげてくれて、その上で味のアドバイスもしてくれてようやく上手く作れるようになった。はずだった。
 それが、昨夜に限って失敗して時間もチョコレートの予備も少しだけしかなくて、結局一番簡単な、型に流し入れて固めるだけのものになってしまった。
 しかも、一口サイズの小さなチョコレート。

 それでも、気持ちだけは誰よりもこもっている。

「・・・ありがとう」

 樹はそれを受け取ると、そっと直斗を抱きしめた。

「せ、先輩?」

 突然どうしたのだろうかと戸惑いながらも、少し力を込められて言葉を噤む。
 やがて離された体。
 見上げた彼の顔はなぜかほっとしたように見えて僅かに首をかしげた。



「これ、開けてもいい?」

 二人で並んでソファに座って受け取った包装に手をかけた樹に頷く。

「本当はもっと、立派なものを作るはずだったんですけど・・・」
「そうなの?」
「失敗してしまって・・・その、そんなに小さくなってしまいました」

 四つに仕切られた箱の中に収められたそれは、一口サイズにしても小さめだ。

「大きさなんて関係ないよ。大事なのは直斗が俺の為に作ってくれたって事」

 そうして一口食べた樹は嬉しそうに笑う。

「うん。おいしいよ」

 その言葉にほっと肩の力を抜く。

「あ。そうだ。俺からもあるんだ」
「え?」
「バレンタインのプレゼント」
「え!?」

 予想外の言葉に目を見開けば、彼は机の中から小さな紙袋を取り出して直斗に渡した。
 戸惑いながら袋の中身を取り出すと、それは馴染みのない長方形の小さなケース。

「これ・・・」

 さらに蓋を開け、掌に転がり出たのは口紅だった。

「たぶん、似合うと思うんだけど」

 少し照れくさそうに口紅を取り上げて、見せたその色は、ピンク系だが少しレッドも混じった可愛らしい色だった。

「塗った事ある?」
「い、いえ・・・」

 予想外のものに驚いて言葉も出ない。

「どうして?」
「ん? どうしてって・・・男からバレンタインにプレゼントを贈ってもおかしくはないだろう? 女の子からっていうのは日本ぐらいのものだし、俺も、直斗になにかあげたかったから」
「あ・・・ありがとう、ございます」

 にっこりと微笑まれて、嬉しさと戸惑いと入り混じった複雑な感情が胸を占める。

「塗ってもいい?」
「え?」
「これ、をここに」

 つい、とあごを掬われて、口紅が口元に寄せられる。

「で、ででででも! 似合いませんよ! って、いや、ちがくて! く、口紅自体がその、ぼ、僕に似合うとは思えないってだけで、先輩からもらえた事はすごく嬉しいんですけど!」
「似合うか似合わないかは塗ってみないと分からないだろう? それとも、俺がプレゼントした口紅は塗れない?」

 そんな言い方をされてしまっては否とは言えない。
 直斗は困って眉を寄せた。

「先輩、ずるいですよ・・・」
「ごめんね」

 謝っているはずなのに、なぜか嬉しそうに笑う樹。
 観念して直斗も小さく笑った。
 それが合図になって、唇に感じた事のない感触が触れる。端から端に辿るそれ。
 恥ずかしくて、どこを見ていたらいいのか分からなくて節目がちにしていたが、ふと気になって視線を上げると真剣な樹の眼差しがまっすぐに唇に注がれていた。

 頬がさらに熱くなる。

「動かないで」

 じっとしていられなくなって身動きをすると静かに注意されてしまった。
 仕方がないのでじっと我慢をしていると、やがて口紅の感触が遠ざかる。終わったとほっとしたものの、顎にかけられた樹の手が頬に移ってハッと視線を上げた。

「せ、先輩・・・?」
「似合うよ」
「あ、ありがとうござい、ます・・・」

 本当なんだろうかと疑いつつも、彼の視線の熱さに戸惑い視線を彷徨わせる。
 けれど、いっこうに外されない視線に恐る恐る直斗もまた視線を上げた。

「あ・・・」

 重なった視線。
 鼓動もひときわ大きくなって、惹かれるように互いの顔が近づく。

 重なった唇。
 つばむように触れ合う。

 何度かそうして唇を離すと、樹の唇に口紅がついていて直斗は自分達が今していた行為を見せ付けられた気がして顔を伏せた。

「直斗?」
「せ、先輩! あのっ、口・・・」

 紅ついてます。と最後まで言えなかった。
 けれど樹はそれだけすぐに分かったのか指で口元を拭う。

「・・・これは」

 己の唇から拭い取った口紅を見て樹が呟く。

「ちょっと恥ずかしいね」

 照れた口ぶり。
 直斗は心の中で突っ込みいれた。


 ちょっとどころではないですっ!



 顔が熱くて仕方がなかった。
 真っ赤になっているだろう頬を隠すために樹の胸に顔を埋める。

 こうして、二人で過ごす初めてのバレンタインは始終甘い雰囲気に包まれていて、直斗はのぼせそうな気持ちのままずっと樹に寄り添っていたのだった。








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