君だけのもの










 その日は雨が降っていた。


 そして樹は走っていた。
 傘をささず、けれど両手にそれぞれ一本ずつ持って。
 全力で走るのにさしたままでは邪魔だという事もあったけれど、もとより濡れていたので今さらな気分だったからでもある。

 なぜ全力で走っているのかというと、どうやら恋人にしてほしくない誤解をさせてしまったから。
 実際、迂闊だったと思う。
 恋人のいる身でほかの女の子を抱きしめるなんて、彼氏失格だと己を叱責した。
 そこにあったのは恋愛感情ではなかったけれど、それでも彼女の立場からすれば見て気持ちのいいものどころか頭に来る行為に違いない。
 それに思い至らず、泣き止んでほしくて小さい子にするように抱きしめるなんてどうかしている。

 どうか別れるなんて言われないように願いながら、樹は右手に持つ傘の持ち主、恋人・直斗の家へと走った。



 ところが、呼び鈴を押してもドアを叩いても出てくる様子がなく、家にいないのかと思って携帯を鳴らせば玄関近くから着信音が聞こえてきた。
 思わずドアノブに手をかければ扉はあっさりと開き、そして倒れている直斗の姿を見て青ざめる。

「直斗!」

 慌てて駆け寄って様子を伺う。
 顔は青白いものの、呼吸はしっかりしており熱もないようだが体がひどく冷え切っていた。
 勝って知ったる直斗の家とばかりにバスルームに向かいバスタオルで身体を包んだ。
 部屋のベッドに寝かせ、少し躊躇ったものの濡れた制服に手をかけて衣類をすべて取り除くとタオルで身体をまいて何枚も布団をかぶせた。
 その間に風呂場に向かい湯船に湯を張ると、わずかに体温を戻し始めた小さな身体を抱き上げて風呂に入れる。
 暖かい湯に浸かって少しずつ頬に赤みが戻っていくのを見てようやく安堵のため息ついた。

「よかった・・・」

 後は目を覚ましてくれれば安心なのだけどと、目を閉じたままの直斗の髪を撫でた。
 雨に濡れてしっとりと重い髪の毛。
 こんなになるほど、直斗はショックを受けたのだろうかと思うと胸が痛かった。

「直斗、ごめんな。・・・誤解されるような事をして」

 頬を撫でて、いまだ閉じたままの瞼に唇を寄せた。
 すると、ピクリと睫が震えて、ゆっくりと瞼が開く。

「ん・・・あれ・・・・・・?」

 か細い声と共に、視線が彷徨う。

「え? なんで?」

 風呂に入っていることに驚いた様子を見せてから、ようやく樹の存在に気がついたのか両手足で露わになっている身体を隠した。

「な、ななななななんでいるんですかっ!?」

 顔を真っ赤に染めて声を裏返させているが、どうやら元気なようなのでほっと胸を撫で下ろした。

「よかった・・・直斗」

 腕を伸ばして、濡れている彼女を気にせずに抱きしめる。

「ちょっ、神凪さん?」
「あ、ごめん。俺冷たいよな」

 自分もまた雨に濡れて冷たいままなのを忘れていた。

「とにかく、よく温まったら出ておいで。それから、ちゃんと話をしような」

 その言葉に直斗は表情を強張らせたけれど、頭を撫でてちゃんと想っている事を伝える。
 案の定、戸惑った様子を見せる直斗に微笑んでから今度こそ風呂場を後にした。




 拝借したタオルで髪の毛を拭き、制服を直斗の物一緒に乾燥機にかける。
 シャツも一度絞らせてもらおうと脱いだところで「わっ」と驚いた声が響いて、直斗が風呂場から出てきた事を知らせた。

「あ、あの。これ、着てください」

 濡れ鼠の樹を見て慌てて差し出されたのは男物の服。
 しかし使用された形跡はなくサイズもぴったりとくれば、もしかしてこれは自分のために用意された服なんだろうかと期待してしまう。

「直斗、ありがとう」

 そういう意味も込めてお礼を言えば、否定の言葉もなく「いえ・・・」と頬を染めて俯かれて、あまりの可愛さに顔がにやけた。

「あ、あの。僕もその・・・ありがとうございました」

 暖めてくれて。
 と、ぼそぼそと呟かれた言葉に頷いた。

「あー・・・それで、土手での事だけど」

 思い切って言葉を切り出すと、直斗は大げさなぐらいびくりと震えて表情を歪めた。
 その姿を見てやはり見ていたのだな、と確信する。

「ごめん。誤解されるような事、した」
「へ?」

 思い切って頭を下げると、直斗が拍子抜けするような声を発した。

「だから、直斗を傷つけるような事をした」
「え?」

 再びきょとんと目を瞬くのでなぜそんな反応なのだろうと彼女をよくよく見ると、本当に意味が分かっていない様子だった。

「えっと・・・」

 もしかして何か勘違いをしたのだろうかと思い直していると、

「・・・じゃ、ない・・・の?」

 と、聞き取れないような声が聞こえてきた。

「わ、別れ、話じゃ、ないんですか?」

 呆然と、涙目で問われて驚く。

「なんで? 悪い事をしたのは俺だろ? 別れ話が出るなら直斗からだと思ってた」
「そんな! 僕は、あなたと別れようなんて思っていません! あなたが僕を想っていてくれる限り、別れるだなんてそんなっ!」

 予想外の強い否定の言葉に胸が歓喜で震える。

「俺もだよ。直斗が、俺を想っていてくれる限り、別れたりなんてしない」
「そ、それじゃ、あの・・・なんで他の女の子を抱きしめたりしたんですか?」
「・・・泣いていたから」
「泣いて・・・?」
「うん。俺がひどい事をしてしまって泣かせてしまったから、泣き止んでほしくてああした。でも、気持ちとしては菜々子を慰めるのと同じ気持ちだったんだ」
「菜々子ちゃん?」
「うん。恋愛感情ではないし、彼女を意識しての事じゃない。これは絶対だから」
「そ、それでも。抱きしめるってどうなんですかっ」

 直斗の声が怒気を含み始めた。

「それは・・・申し訳ない」
「もっと、もっとよく考えて行動してください! あなたはっ、ただでさえモテるんですから! 僕をっ・・・」

 もとからこうして怒られる覚悟はしていたとはいえ、やはり怒った直斗は怖いと、首を竦めているとふいに言葉が途切れた。
 様子を伺うと、今にも泣きそうな表情にぶつかって樹は目を見開く。

「僕を、不安にさせないで下さい・・・」

 小さく、本当に小さく囁かれた言葉に胸が締め付けられた。
 愛しさでどうにかなってしまうんじゃないかと思うくらいに。

 樹は手を伸ばしその華奢な身体をきつく抱きしめる。

「ごめん。もう二度と、あんな事しないから。直斗だけだから」

 ごめん。ともう一度言うと、直斗の手が背中に回った。
 胸に摺り寄せられる頭に頬を寄せて。

 誰よりも好きだと告げる。

「俺は、直斗だけのものだよ」

 囁けば直斗は世界で一番可愛い笑顔を樹に向けた。








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