痛み
その日は雨が降っていた。
視線の先にある光景がはたして現実なのか、分からないほどに霞みがかかっている。
それが涙のせいだと分かったのは傘が手から滑り落ちた後だった。
女でよかったと、心から思う事ができたのは、彼のおかげだった。
彼が・・・樹が、自分を女でよかったと微笑んでくれたから、想う事を恐れずに受け入れる事ができた。
想われる喜びを、包まれる温もりをが知って、女だからこそ受け入れられるものもあったのだと、知って・・・。
すべてを捧げてもいいと思えた人が、今、別の女性を抱きしめている。
二人の姿を見かけたのはたまたまだった。
樹が雨の日に一人で散歩をするのを好んでいたのを知っていたから、今日は別行動をしようと約束は取り付けていなかった。
その彼が土手で傘もささずに立っていて、向かい側にいる女の子が顔を伏せているという、遠目からみても何かがあったと分かる様子をしていれば気になるだろう。
なにを話しているのかは雨音で聞こえない。
けれど、次の瞬間、樹がその子を抱きしめたのを見て心が凍った。
コレハナンダ
呆然と、二人を見る。
どくどくと、心臓の音が耳の奥で響く。
次第に霞む視界。
傘が手から滑り落ち、直接雨が身体を濡らす。
身体をすべる雨は冷たいのに頬に流れる雨は熱い。
おかしいと、頬に指先を触れさせてようやくそれが涙だと知った。
「・・・そうか」
僕は悲しいのか。
ようやく心を覆うのが悲しみと喪失感である事を理解する。
「イタイ・・・」
心が痛い。
二人を見ているのが痛い。
直斗は踵を返しその場を後にした。
二人の間に割り込んでこれはどういうことだと追求する勇気は、なかった。
樹とは想いを交し合って恋人にはなったけれど、いつだって直斗は自分が彼の恋人でいいのだろうかと思っていたから。
女である事に抵抗を感じ、女の子らしい格好も恥ずかしくてできない。好みだって性格だって男っぽいし、自分のどこに樹は惹かれたのだろうかと思う毎日。
樹だって、本当はもっと女の子らしい子が好きなはずなのだ。だから、いつまでたっても女らしくならない直斗に愛想をつかしてしまったのかもしれない。
もしかしたら、あの子と付き合うのかな。なんて考えて、また瞼が熱くなる。
「・・・神凪さん」
離れたくないのに。
雨が涙を隠してくれるから少しくらい、泣いてもいいよね、と本格的に涙ぐみそうになった時、ぐいっと強い力で腕を引き寄せられて目を瞬いた。
「なっ・・・」
何事だと思えばそのまま傘を押し付けられ、さらにその腕を引っ張られた。
「た、巽くん!?」
見覚えのある後ろ姿に声をかけると、怒った面持ちで彼が振り返った。
「なにやってんだよ、テメェ! カゼひきてーのかっ!」
怒鳴られて、ぐいぐいと引きずられるように連れて行かれたのは彼の実家、巽屋。
驚いて事態についていけないでいると、「ちょっと待ってろ」と言い捨てて奥に消えてしまい、ものの数秒で戻ってきた彼の手にあったタオルが直斗の頭に乱暴にかぶせられた。
「さっさと拭け!」
「は、はい」
帽子をとってわしわしと力なく拭いていると、彼はまたどたばたと足音を立てていなくなってしまった。
呆然と、けれど室内の暖かい空気に自然と息をつく。
涙も完二の登場で引っ込んだようだ。
「オイ。これ着ろ」
「え?」
いつの間に戻ってきたのか、完二の手にあった服をぐいっと直斗に押し付ける。
見るからに大きい黒い服に目を瞬いた直斗は、完二とそれを交互に見つめて戸惑う。
「あ〜ったく! 濡れた服着てっとカゼひくだろうが!」
「ああ・・・。ありが・・・」
そういうことか、と思い、彼の服を手に取りかけてそこでぴたりと止まった。
「どうした?」
完二が心配げに見ている。
分かっていたけれど、それを着る事にひどく抵抗を感じて直斗は今一歩を伸ばせずにいた。
着替えるという事はこの服を脱ぐ事になる。
樹の家ではなく、別の、男性の家で。
それだけではない。
自分は、樹以外の男の服を着ようとしているのだ。
樹以外の匂いを身に着けることになる。
イヤダ
心が拒否を訴える。
この身体は樹のものだ。
樹以外にこの身を晒したくないし、預けたくないのだ、と。
完二は善意で言ってくれているのに、なんて失礼な事を思っているのだろうか。
けれど、どうしても手に取ることができず、結局腕を落としてしまった。
それを見た完二がしばし沈黙し、そして「ああ!」と何かを納得したように声を上げた。
「そ、そっか。オレのじゃまずいよな。っていうかお袋のを持って来いって感じだよな!」
「あ。ちょ、た、巽くん!」
また奥へ走り出そうとするのを慌てて止めようとしたが間に合わず、彼は三度消えてしまった。
このままでは本当に着替える事になりそうだ。
その前に出て行かなくてはいけない。
申し訳ないと思いつつ、使用したタオルを畳んで置き、直斗はそっと巽屋を後にした。
再び雨に濡れながら思うのは、心のすべてが樹の方へと向いているという事だった。
正直なところ、ここまで彼を好きな自分が怖い。
このままでは彼なしでは生きていけなくなってしまうのではないだろうか。
引き返せないところまで想いが募っている事は認めるけれど、傍にいなければ生きていけないなんて、そんな依存をする関係には絶対になりたくないのに。
そうなる前に。
「このまま、実家に帰ってしまおうかな・・・」
次に樹と顔を合わせたとき、彼の口から出る別れの言葉を聴くのもいやだし。
ようやくたどり着いた自宅、濡れたまま玄関先に座り込んで膝を抱えた。
事件は終わった。もう、ここに固執する理由もないのだから。
「離れれば、あなたのことを忘れられるのかな・・・」
遠くなる意識。
否という想いが心の奥にあって、直斗は自嘲の笑みを浮かべると瞼を閉じた。
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