Holy Night
ぼんやりと霞む視界。
まとまらぬ思考。
荒く呼吸をするたびに、喉がひりひりと痛みが走る。
身体はけだるく、指先一つ動かすのも辛い。
なんでこんな時期に、と樹は深くため息をつく。
12月23日。
2学期も終わり、冬休みに突入した今日、樹は高熱を出して寝込んでいた。
本当ならクリスマスを稲羽市で過ごすために出発していた頃だというのに、なんという事か。
「直斗・・・」
24日は彼女と一緒に過ごすと約束していた。
夏休み以来、ずっと会っていない樹の恋人。
もちろん、電話やメールのやり取りはしているけれど、それでも、やっぱり顔が見たかった。
直接会いたかった。
去年のように二人きりでケーキを囲んで、もっと一緒にいたかったら直斗にアリバイを作ってもらって。
思い出して、思わず笑いが漏れる。
あの日の直斗の女子制服姿が予想以上に可愛くて、同時に女子制服で通い出したらどうしようかと内心焦ったりもした。
幸い、彼女自身が恥ずかしがって当分は男子制服でいると宣言してくれたけれども。
メールをしないと、と枕の傍に置いておいた携帯電話を手に取る。
液晶画面を見るのも辛いけれど、このままの状態では明日会うことは無理そうだった。
注射するなり、解熱剤を飲むなりして無理をして会いにいくのはかまわない。けれど、そのせいで直斗に風邪をうつす事だけはしたくなかった。
だから。
明日の予定をキャンセルするとメールする。
風邪が治ったら会おうと。
少ししてから、携帯電話の着信音が鳴った。
メールではなく、通話を知らせる着信音に、直感的に直斗だと思った。
案の定、『白鐘直斗』と記された携帯電話の通話ボタンを押す。
「直斗?」
『あっ・・・。すみません、寝ているところを』
こちらの声が掠れている事に驚いたのか、直斗がワンテンポ遅れて反応する。
「いや、大丈夫だよ。・・・それよりも、ごめん。明日」
『いえ! いいんです。そんな事は・・・』
直斗の声が沈む。
『それよりも、熱はどうなんですか?』
「うー・・・ん、何度かな。朝計った時は8度以上だった気がするけど」
『えっ!』
「大丈夫だよ。ちゃんと病院行ってきたし、ちゃんと薬を飲んだから。・・・朝よりも楽だよ」
『あ・・・。すみません、そんな大変な時に電話してしまって・・・』
「いいよ。声、聞きたかったから・・・」
それは本当だった。
会えなくても、せめて声が聞きたかった。けれど、風邪でかすれた声を聞かせたら余計心配させるかもしれないからと思ってメールにしたのだから。
「明日・・・会いたかった、直斗・・・」
『あ・・・。はい・・・僕も、先輩に会いたかった』
「うん」
『早く、元気になってくださいね』
「うん。治ったら、会いに行くから」
『・・・はい。あの、それじゃ先輩、僕はこれで。あまり長くなると悪いし・・・』
「電話ありがとう。声が聞けてよかった」
小さく、直斗が笑った。それを最後に通話を切る。
声を聞いたら余計に会いたくなってしまった。と、樹は苦笑をこぼす。
早く風邪を治して直斗に会いに行こうと改めて心に決める。
それには眠るのが一番だと樹は瞼を閉じた。
脳裏に浮かぶのははにかんだ笑みを浮かべる直斗の顔。
良い夢が見られると思った。
翌日も熱は下がりきらず、朝から寝たり起きたりを繰り返していた。
両親はいつもどおり会社に行っているので当然一人だったが、お粥だけは一日分用意しておいてくれていた。
4人用の鍋いっぱいに作られたお粥。
さすがに作りすぎなんじゃないかと笑ってしまった。
少し大味な所が母らしいと思いながら、それを食べて薬を飲んで睡眠をとる。
日が暮れる頃、何度目かに目が覚めるとまだ喉がいがらっぽいが、体が軽くなっていた。
熱を測ってみると微熱と言っても良いくらいに下がっていてほっと息を吐く。
そうなると気になるのが汗にまみれた身体で。
迷ったが軽く汗を流すぐらいなら大丈夫だろうとシャワーを浴びる事にした。
そうしてさっぱりとした頃、インターホンが鳴った。
特に誰と気にせずにドアを開ける。
と。
「な、直斗?」
そこにいたのは直斗だった。
オフホワイトのクラシカルなコートを羽織り、そのすそからモカ色のスカートが覗き、リボンの付いたブラウンのロングブーツを履いたその姿は可愛いの一言で、予想外な人物の予想外の姿に言葉を失う。
目を丸くしているのは直斗もまた同じで、言葉もなくこちらを見つめていた。
「な、なんて格好をしているんですか!」
しかし次の瞬間、声を張り上げたのは直斗の方だった。
眉を吊り上げて直斗が怒り出す。いったい何のことかと首をかしげ、首筋に感じた水滴に己が風呂上りだということを思い出す。
慌てて手に持っていたタオルを頭にかぶせた。
「とにかく入って」
「は、はい」
樹は自分の部屋に戻ると、今まで締め切りだった部屋の窓を開けて換気する。
「ごめん。寒いけど少しこっちで待ってて」
「あ、せんぱ・・・」
慌てて暖房を入れ、自分もまた髪を乾かしに洗面所へと向かった。
五分ほどして戻ると、直斗がいまだコートを着たまま所在なげに立っていた。
「直斗」
声をかけると、直斗が心配げにこちらを見上げていて、樹は安心させようと笑いかける。
「熱は大丈夫だよ。もう微熱くらいだから」
「そんな! 微熱でも熱はあるじゃないですか! 早く寝てくださいっ!」
「あ、いや。今部屋換気しているから寒いよ」
「そんなことはいいですからっ」
再び怒り出した直斗は樹の背を押して部屋へ戻らせようとした。樹は逆らわずに自室に戻り、ベッドに潜り込む。
直斗は先ほど開けたばかりの窓を閉め、ついでにカーテンも閉めた。
「ちゃんと、暖かくしてください」
さらに言われ、大人しく上着を羽織った。ふいに額に触れた柔らかい手にどきりとしながら、熱を測っているらしい直斗を見上げる。
うっすらと化粧をしているらしいその顔は、ずっと会いたくてしょうがなかった恋人の顔。
「・・・熱、上がっているんじゃないですか?」
「そうかな?」
そっと彼女の手に己の手を重ねる。
びくりと小さく震えた直斗の視線が樹のものと重なった。そのとたん、頬を染めて視線をそらしてしまう。
「・・・びっくりした」
呟くように言えば、直斗ははにかみながらこちらを見る。
「・・・はい」
「会いたかったから、夢を見ているのかと思った」
「はい。・・・僕も、先輩に会いたかった」
本当に小さい声で囁く。
「先輩の声、掠れていて苦しそうで・・・どうしようか迷って・・・。でも、会いたくて来ちゃいました」
「直斗・・・」
力いっぱい抱きしめたい。たくさんキスがしたい。
そんな欲求を樹はぐっと抑えて、代わりに握った手に力を込めた。直斗もまたそれに答えてくれて、二人は小さく笑い合う。
「あ。そうだ。ケーキ、買ってきたんです。一緒に食べられなくても、雰囲気だけでもクリスマス気分を味わえたらって思って」
でも、玄関に置いてきてしまったと、慌てて玄関に戻ってしまった直斗と手が離れる。
それがちょっと寂しいと思いながら、身体を起して彼女が帰ってくるのを待つ。
ちょうどその時、携帯電話がメールの受信を知らせた。内容を確認しようと開いて一瞥する。
読み終えたその瞬間に戻ってきた直斗はケーキが入っている箱と一緒にさっきまで来ていたコートを持っていて、隠れていた服が姿を現していた。
モカ色のスカートが、本当は胸元をレースで飾られ、胸の下で切り替えたAラインのワンピースである事を知る。
めったに見ることの出来ない、その女の子らしい姿に目を見張る。
コートを羽織った状態でも十分に驚いたけれど、ワンピース姿でまた驚いてしまった。
「あ、あの・・・っ」
恥ずかしそうに目を伏せる直斗に感嘆声を上げる。
「さっきも思ったけど、すごく可愛いね」
「ほ、本当ですか?」
心配そうに眉を寄せる直斗に大きく頷く。
「本当だよ。こんな直斗を見れて嬉しいよ」
そう言うと、ほっと胸を撫で下ろした直斗は慌てたようにケーキを持って近づいてきた。
「はい。これです」
ベッドの近くにあったテーブルにケーキをのせて箱を開ける。中から出てきたのはワンホールのチョコレートケーキだった。
「去年はショートケーキだったので、違うのにしてみたんです」
ロウソクを刺して、持ってきていたらしい簡易ライターで火をつける。
電気を消して二人でそのケーキを見つめた。
樹は直斗に視線を移す。彼女は穏やかに微笑みながらまだケーキを見つめていたが、やがて樹の視線に気がついたのか顔を上げて、そして息を呑んだようだった。
「・・・今日は本当に会えると思ってなかったら、会いに来てくれて嬉しかった」
そっと、直斗の手を引いてベッドに座らせる。
「風邪、うつしちゃってもいい?」
問いかけると、直斗が薄闇の中でも分かるくらい頬を赤く染めた。
けれど、頬に手を添えても、顔を近づけても、首を横に振ることはなかった。
軽く口付けて、そのまま唇を触れさせたまま問いかける。
「今日、アリバイ工作は?」
「あ・・・だ、大丈夫、です」
恥ずかしそうに頷く彼女に「よかった」と樹は笑った。
「あ! で、でも先輩のご両親は・・・」
「今日は帰れないって」
「え?」
「さっきメールが来た」
だから二人きりだよ。
そう耳元に囁いて、その細い身体を抱きしめた。
ロウソクの火が消える。
二人の囁き合う声だけが静寂な室内に響く。
聖なる夜は始まったばかりだった。
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