あなたとわたしの距離










「よく動物を飼う事に慣れてない人は、先生やおまえ達が飲むような牛乳を与えてしまうけど、犬や猫には人間用の牛乳を与えない方がいいんだぞー。牛乳に含まれている乳糖を充分に消化できずに、腹を壊しやすくなるからなー。かわいそうだろーそんなことになったら。だから専用のミルクを与えるようにするんだぞー。」

 わかったかー。と至極真面目な様子で生徒達に言い聞かせる教師。
 そんなマメ知識がいったい本来の教科となんの関係があるのだと、直斗は溜め息吐いた。
 この高校のすごいところはこんなずれた授業をしていても、けして学校のレベルは低くないところだろう。
 本当に不思議な学校だ。

 終了まで後何分だろうかと腕時計を見て、そこに表示される半径10メートルの数字。
 それを見て直斗はくすぐったい気持ちになって笑みを浮かべた。

 そういえば、これと同じ時計を持つ人は猫が好きだったな、と思い出す。
 人に頼まれたのがきっかけで猫に餌をあげるのが日課になったらしい。

 いわく、猫と目が合った瞬間、あげなきゃいけないような気がしたんだ。だとか。

 本人はそれまで自分が猫好きだと思ったことがないらしいが、飽きずに半日も猫と戯れていられるのなら、猫好きだと思うと告げたら少し嬉しそうな顔をして笑っていた。
 あまり動物と縁がなかったから嬉しい、と。
 そうして、両親が共働きの事、それもあってペットを飼いたくても飼えなかった事を聞いた。

 一緒の時間を過ごして、少しずつ好きな人の事を知っていって、心の距離を縮めていく事がこんなにも嬉しい事だなんて知らなかった。
 女である事を拒絶していた直斗は、誰かを特別に想う事からも逃げていたから。
 だから直斗にとってこれは初恋と言っても過言ではなかった。

(初恋は実らない、と聞いたことがあったけれど・・・)

 自分は実ってしまった。

 ふふふ。と小さく笑って、それからはっとなって周囲をこっそり見る。誰も直斗を見てはいないことにほっと胸を撫で下ろした。
 今はまだ授業中なのを忘れてしまっていた。

(駄目だな。あの人を思い出し始めると周囲が見えなくなってしまう)

 彼のことで頭がいっぱいになって他の事を忘れてしまう。
 それでは駄目なのだと分かっていても、なかなか心は承知してくれない。
 いつの間にこんなふうになってしまったのだろうと、最近良く考える。

 初めて彼の姿を見たのは、捜査後の鮫川の土手。猫に餌をあげている姿だった。
 最初は彼が連続殺人事件に何らかの関わりを持つ人物だと知らなかったから、なんとなく目に入った程度だったけれど、なぜだかとても印象に残っていて、二度目に彼を見かけたときにすぐに土手で見かけた人だと分かった。

 それからたびたび同じように土手で猫に餌を上げている姿を見かけて、やがて彼が堂島の甥であり、事件の何かを知っている人物である事を知った。
 彼の事を調べるために人柄を問えば皆口をそろえて不思議な人だという。だがとても気になる人であるとも。
 花村のように目立つタイプではないのに、そこに静かに立っているだけで引き込まれる何かがあって、目を向けずにはいられない。
 氷のような冷たい印象を受ける容姿をしているのに、笑えばとても温かで優しい。
 澄ましているのかと思えば悪ノリもするし、イタズラもする。
 どうにもつかみ所のない人だと。

 直斗はその一貫性のない人物像に首をかしげたものだが、実際に行動を共にする事になってその証言になるほど、と妙に納得したものだった。

 冷めたものの見方をすると思えば、誰かを守るためならば命を懸けることもいとわないほど人情にあふれ、そのくせ誰もが感情に流されてしまう中でも、一人冷静さを忘れない聡明さを持ち合わせた、なんとも柔軟な思考と心の持ち主。
 確かに彼を表現するのなら不思議な人、なのだろう。
 こういう人なのだ、と思い込むと想像を遥かに超えた行動を起すのだから。
 
 だからこそ、思っても見ない行動を起す彼は直斗の知的好奇心をひどくくすぐる。
 彼の事を知りたくて、わざわざ放課後の約束をとりつけに行ってしまうほどに。

 その時は、まさか彼を異性として好きになるとは思っていなかった。
 こんな、いつでもお互いの距離が分かってしまうような時計まで作ってしまうほど、傍に居たいと切望するようになるなんて・・・。

 再び時計を見る。
 彼との距離は・・・。

「え?」

 半径1メートル以下と表示されたそれに目を瞬く。

「ええっ!」

 改めて見てもやはり半径1メートル以内。
 はっとなって顔を上げればそこに居たのは今まさに考えていたその人。

「か、神凪さん! いつのまに!」
「あ。ようやく気がついたな」

 目を細めて笑みを浮かべる想い人の姿に頬が熱くなる。

「じゅ、授業は!?」

 慌てて周囲を見渡せば、すでにクラスメイトの半数以上はおらず、残った生徒が何人かいるのみだった。だが、妙に静かなのはどういうことだろうか。

「もうとっくに終わったよ。いつものところにいないから教室に来てみたら何か考え事をしているようだったから」
「ま、待っていてくれたんですか?」
「まぁ・・・そうだね」
「す、すみません。あの、お待たせしてしまって・・・」

 急いで教科書をしまって立ち上がると、いいや、と帽子越しに頭を撫でられる。
 瞬間、上がる黄色い声。
 びっくりして目を瞬くと、ほら、行くよと手を引かれた。
 再び上がる黄色い声にやはり何事だと考えて、すぐに目の前の人のせいかと思い至った。

 そう。この人、神凪樹は全学年の男女共に人気のある人なのだ。特に女子は彼がクールで素敵だと熱い視線を送っている。
 背も高く、スポーツも勉強も見目も良ければ注目されない訳がない。
 そんな人が一年の教室に来たらファンの女の子達が騒いで当然。
 教室内の不自然な空気は彼がいたからなのだろう。



「直斗、何かあったのか?」
「え? なにがですか?」

 二人並んでの帰り道。
 彼が自分の歩く早さにあわせて歩いてくれていると気がついたのはいつだったか。
 その事にこそばゆい思いをしながら、それでも嬉しかったのを思い出していると、ふいに樹に問われた。
 
「直斗が授業が終わったのも気がつかないくらい考え事に集中しているなんて珍しいじゃないか」
「あ・・・それは・・・その・・・」

 まさかあなたの事を考えていて、周りが見えなくなっていました。なんて恥ずかしい事を言える訳もなく、直斗は口ごもった。

「何か事件?」
「いえ。それは違うのですが・・・」
「悩み事か?」
「いえ、それも・・・違います」

 じゃあなに?と視線で問う樹になんと言って誤魔化そうかと思案する。
 事件でもない。悩み事でもない。ならばなんと言い訳すればいいのか。
 名探偵と称された白鐘直斗でも、己の恋愛事には優秀な脳は働いてくれないらしい。
 じっと見つめてくる瞳にドキドキと鼓動が高鳴りながら言葉を詰まらせる。

「俺には話せないこと?」
「そんな! あなたに話せないことなんてありません!」

 言ってから、「しまった」と頬を染める。
 このままではすべてを話す事になってしまう。

「あ・・・いえ、じ、事件に関わる・・・その、機密事項などの守秘義務は当然ですから、神凪さんに話せないことも、あります」

 なんとかフォローはできないだろうかと言葉を続けるが、どんどん目的と離れていくのは気のせいか。

「でも、考え事は事件の事じゃないんだろ?」
「・・・は・・・はい・・・・・・」

 案の定、樹はなくしてしまいたい先の直斗の証言を繰り返す。
 迂闊な己を殴りたい気分だと直斗はうなだれた。 
 にやにやと笑みを浮かべる樹の顔はすでに、直斗がなにを考えているのか分かっていると言いたげで。

「・・・参りました」

 直斗はついに降参をした。

「参りました。って、今回は直斗の自爆じゃないか」
「それは・・・そうですが・・・・・・」

 楽しそうに笑う樹を見て頬を膨らませる。

「そんなに笑わないで下さい!」
「ごめんごめん」

 はーと息をついて、笑いを沈めた樹は、それで?と直斗を見つめる。

「なにを考えていたの?」
「それは・・・その・・・・・・」
「俺のことじゃないのか?」
「!」

 カッと頬が瞬時に熱くなる。

(やっぱり気づいてたっ!)

 羞恥心で泣いてしまいそうだとぐっと唇を噛むと、そっと樹の指先がそこに触れた。

「っ!」
「ダメだよ。怪我したらどうするんだ」

 驚いて身を竦めた直斗の正面にまわった樹が目を覗き込んでくる。

「キスした時に痛いよ?」
「!!」

 イタズラっぽく目を細めて、小声で告げられた言葉に、今度こそ直斗は硬直した。

(この人はどれだけ僕の心臓を止めれば気が済むんだっ!)

 ぎゅっと己の胸元の制服を握り締める。 

「直斗?」

 不振に思ったのか、心配げな呼び声に視線で答えると、ふと真面目な表情を浮かべた樹が無言で直斗を見つめた。
 どうしたのだろうかと思えば制服を握り締めたままの手を掴まれて、彼にしては珍しく少し強引に引っ張る。

「うちに行こう、直斗」
「か、神凪さん!?」

 それがなにを意味しているのか、分からないほど浅い付き合いをしていないだけに、直斗は赤面を止める事ができない。
 なぜ急にそんなことを言い出したのだろう。そんな展開になる前振りはなかったはずだ。

「だめ?」
「だ、だめって言われても・・・。なん、で急に・・・そんな・・・」

 思考が混乱のさなかにある直斗は、上手く情報を処理する事ができず戸惑うばかりだ。

「直斗が可愛いから」
「かわっ!?」
「直斗が好きだから」
「か、神凪さんっ!!」

 半径1メートル以内と表示された時計を親指で撫でられて、鋭い視線に射抜かれて。

「直斗。もっと近くに行きたい」

 奪われるように口付けられては感情の何もかもが樹へ向かうほかなく、もうだめだと直斗は考える事を止めてしまった。

 ここが公道である事も忘れてぬくもりをかんじる事だけに心を傾ける。





「・・・あなたといると、僕は僕でいられなくなりそうです」
「嫌?」
「・・・いいえ。そうして生まれた僕・・・わたしも、やっぱりわたしだから」
「うん」
「あなたがくれた、わたしだから」
「直斗」
「わ、わたしも・・・もっと近くに行きたい、です」

 誰よりも近く、樹の傍に行きたい。
 目に見える距離だけではなくて、目には見えない、心の距離をもっと。

「・・・あなたとわたしの距離を、縮めてください」






 わたしはあなたが、どうしようもなく好きなんです。









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